重度の肢体不自由者の地域生活等に関する講義
土屋ケアカレッジ校長の宮本武尊です。
本日は重度訪問介護従業者養成研修統合課程1日目の最初の講義テーマである
「重度の肢体不自由者の地域生活等に関する講義」についてお話させていただきます。
本研修の主旨は3つあると私は解釈しています。
- 業界未経験の方でも専門的知識と技術を学び、安心してお仕事に就きかつ継続できること
- 重度訪問介護サービスを利用するすべてのクライアントが、安心して在宅生活を送れること
- アテンダントとクライアントが良好なコミュニケーションで信頼関係を築き、やりがいと生きがいを醸成できること
以上を目指して、具体的内容を講義の中で学んでいきます。
重度訪問介護サービスのアテンダントは、クライアントのプライベート空間でライフスタイルに合わせて、必要に応じて必要なケアをすることがお仕事です。
しかし、私たちは相対的に日常生活の中で重度の障害を抱える方との接点が多くないことから、クライアントがご自宅でどのような暮らしをされているのか、プライベートを知るのは極めて難しいことであり、クライアントの心情まで理解することも難しいことだと言えますので、知らないし想像もつかないお仕事に就くのは不安な気持ちになるのは当然のことだと思います。
私たちがクライアントの立場だったと想像できれば、細かなニーズにも気付いていけるのですが、まずは想像できるだけの情報が必要だと思っていますので、重度の障害を抱える方々がどのように地域で暮らしてきたのか、どんな思いを抱いているのか、障害福祉の制度の成り立ちを含め、障害当事者たちの歴史的背景を“知る”という時間が本研修最初のテーマのポイントです。
ところで、私たちが地域で暮らしている中で様々な社会保障制度を活用して生活しているのと同様に、障害者のための社会保障制度にはどのようなものがあるのでしょうか。
障害福祉サービスには「介護給付」「訓練等給付」「地域生活支援事業」の3つに区分されています。介護給付は、ホームヘルプサービスや生活介護等で“介護支援”を受けるものです。訓練等給付は、自立訓練や就労移行支援等で“訓練等支援”を受けるものです。そして、地域生活支援事業は、手話通訳の派遣や自立生活支援用具の給付または貸与など、市町村の創意工夫によって利用者の状況に応じて柔軟に実施するものです。
説明はほんの一部ですが、国の制度としてこのように障害を抱えていてもいなくても誰もが住みやすい世の中になっていることが推測できます。
さて、ここからが本題です。
社会保障制度は、私たちすべての国民にとって必要だからこそ国で制定されていますが、いつからできたのか、なにがきっかけで制定されたのでしょうか。
実は、障害福祉の制度は「障害当事者」たちの”訴え”から始まり、現代に至るまで発展してきたました。
日本で初めてできた障害者のための福祉制度は1949年でした。
太平洋戦争が終わった年の4年後ですが、その頃なにがあったのか、時代を遡ります。
1945年、終戦を迎えた兵士たちの中には大怪我を負って帰省した傷痍軍人といわれる人々が約32万人ほどいたといいます。目が見えない、手がない、足がない、社会復帰が困難な状態にも関わらず、更に追い打ちをかけるよう日本政府はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示のもと、傷痍軍人への社会的支援を打ち切りました。
絶望で自ら命を絶つ人も少なくなかったそうです。
病院へいくにもお金が掛かり益々生活に困窮する軍人たちは、街角で募金活動や集会をひらいて国へ救済を訴える日々を過ごしました。
そんな時にアメリカから社会福祉活動家のヘレン・アダムス・ケラーが来日しました。
目が見えない、耳が聞こえない、しゃべれないという三重苦で有名なヘレンケラーは、日本全国を飛び回り政府やGHQと懇談を重ね、傷痍軍人と身体障害者への社会的支援を訴えていき、これを機に日本政府は傷痍軍人と身体障害者の全体を対象に支援の枠を広げた法律をつくることを決め、1949年に日本で初めて障害者の為の法律である「身体障害者福祉法」が制定されました。
この法律は義足や義肢の提供や職業訓練など”社会復帰”を目的としたものであり、一方では法律の対象とならなかった人たちがいました。
それは、更生の見込みが全くないとされる、頗る重度の障害者だったのです。
結果的にマイノリティーが社会から切り捨てられる形となり、生活に困窮する人は後を絶たない状態が続きました。
社会復帰が見込めない者=社会の役に立たない者
という解釈をしていることがわかりますが、「社会の役に立たない者は要らない、排除してしまえ」という考え方を、一言でいうと「優生思想」と言います。
その思想が濃かった当時の日本は、社会の役に立たない者と見なされた人に対し差別や偏見の目が強く、重度の障害を抱える人たちは座敷牢のように家の中に閉じこもるしかありませんでした。
つづく・・・