皆様、はじめまして!
土屋ケアカレッジ東北を担当している白鳥です。
土屋ケアカレッジでは最短3日間で取得できる重度訪問介護従業者養成研修統合課程や初任者研修、実務者研修を行っております。医療的ケアも学ぶことが出来ます。
是非、迷っている方がいらっしゃいましたら、はじめの一歩を勇気をもって踏み出してもらえればと思います。
今日は初めてのブログなので自己紹介を兼ねて介護の仕事をはじめた理由をご紹介します。
宮城県仙台市の中心部からは離れた、一面に田んぼの広がる豊かな自然に包まれた地域で生まれました。
私は4人姉妹の3番目で、お姉ちゃんの後を追いかけていたからか小さい頃から活発でした。缶蹴りにゴム飛び、泥警、忍者ごっこといって2階のベランダにひもを結んで1階に降りたりしていました・・・。(笑)昔の遊びはハードでした(笑)
中学でバレーボール部、高校では弓道部に入りました。弓道に関しては今でも趣味として続けています。この時の仲間たちは今でも集まって時間を共有することがあります。ほぼ、昔の思い出話で大笑いしています。なんでなんでしょうね。同じことを何回いっても面白いんですよね(笑)あの先生のここが・・あそこが・・と、不思議です(笑)
現在は3人の子供(長男、長女、次男)を授かり、一緒に楽しく暮らしています。
大学生が2人、高校生が1人です。大きく成長して嬉しい限りです。
ここまでだと順風満帆な人生に思えますが、実は次男の妊娠中、悪性リンパ腫を宣告されてしまいました。悪性リンパ腫とは血液中のリンパ球ががん化した疾患で抗がん剤治療を行わなければなりませんでした。
私と次男のどちらも助かるには妊娠7カ月で産むという決断をしなければいけませんでした。本当に何がなんだか分からない状態で、先生の言葉を信じ出産、治療を行いました。
産後皆さんもご存知のとおり抗がん剤をやると副作用で吐き気があったり、髪の毛が抜けたりするんですよ・・・。
でも必死に帽子やウィックで隠していたので、理由を知らない人は帽子好きの白鳥さんみたいになっていました・・いまでこそ笑えますが、当時は絶対に帽子をとりませんでした。
1750gで生まれた次男の脳には障がいが残ってしまいました。産まれたばかりのときは健常児のようにと育ててきましたが、無呼吸発作や点頭てんかんという難病に罹ったりと挫折感や絶望感はかなりのものでした。私の実母の協力や子供たちの存在が、私を強くしてくれ、乗り越えて行くことが出来たのではないかと思います。
次男が3歳くらいのときに障害者手帳の話を区役所の職員さんにされて取るのも迷いました。
何で迷うの?と思うかもしれませんが、障害児ということを認めることになってしまうのですよね。(私の感覚です)
この時迷ったのは、子どもの障害を受け入れていなかったからなんじゃないかって。どこかで、いずれは健常児に戻るんだとか、少しでも障害が軽くなるんだという思いがあって、息子の障害にちゃんと向き合っていなかったんだと思います。手帳は障害者1級を取得しましたが、母親としては、これは諦めきれないところだと思います。
病気の発症から5年を経て、体調も回復しましたので社会復帰を考え、総合病院で働き始めます。本当に自分は悪性リンパ腫の再発がないのか不安な状態だったので、今を生きるので精一杯でした。
次男も成長し、特別支援学校に通うという形で小学生になりました。
特別支援学校には様々な障害を持っているお子さんが通っています。痰を吸引をしたり、鼻腔からシリンジで栄養を注入していたりと医療的ケアを目の当たりにすることが多くありました。
私もこのような医療的ケアをする立場になれば、いざというときに役に立つ知識も身に付き、より良い介護、つまり、息子を守ることに繋がるのではないかと思い始めました。
介護の仕事を始めてからは当事者の気持ち、家族の気持ちが他の人よりはちょっとだけわかるのかなと思っています。実際に支援に入っているときは慣れもありますが、人一倍コミュニケーションはとれていたと思います。
統合課程を受講される方の身内には障害児者が多いことにびっくりしています。
今まで、誰にも言えずに苦しんでいたのか、泣きながらお話してくれたりすることもありました。
私の息子が重度の障害児ということで話しやすいし相談しやすい環境になったのかなと思います。
受講生の方も、強くなくちゃいけないとか1人で何とかしなくちゃいけないと知らず知らずにバリアしているのだと思います。
1人で悩まず、学んで理解を深めることで不安も薄れてくるかもしれません
いつでも土屋ケアカレッジでお待ちしています。
そしてあなたが福祉業界への架け橋となる、きっかけになれば嬉しいです。
皆様にお会いできる日を楽しみにしています。